友達が少ない人

よく友達と一緒にいて謎の虚無感に襲われることがある。

 

この人と遊んでいる間に他に何か有意義なことができるんじゃなかろうかと考えてしまうからだ。

TOEICの勉強、今日の講義の復習、blenderいじいじ、早寝でごろごろ──

一緒にいながらこんなこと考えてる奴と仲良くしてくれる友達は聖人なんじゃないかと思いながら友達を見る。

 

そしてまた、この人と遊んでいる間に使うお金は他のことに使えるんじゃないかと考えてしまうこともある。

本を買う、化粧品を買う、ヒトカラに行く、期間限定の大きいシロノワールを1人で食べる──

一緒にいながらこんなこと考えてる奴と友達でい続けてくれる友達は神じゃないかと思いながら友達を見る。

 

正直話している内容は私好みではない。表面的に世間話をして、相手の話に笑っているけれど心には虚無空間が広がっている。つまり愛想笑いである。

深い話が好きだ。表面的な話はできるけど好きにはならない。表面的な話を好む人と話す際には、話しながらも「自分は何をしているのでしょう」と思っている。

で、私は友達をやめる。友人関係を継続したところで、私の得られるプラスは少ないと冷静に判断するからだ。

で、友達が少ない。でもそれを満足に思っており、私としては充実している。

このような冷たい人間と仲良くしてくれようとする相手の時間と労力が無駄でしかないので、お互いのためにも私は友達を辞めようと思う。

他人との関係を回避する人間である。でも直す気もさらさらない。なぜならそんな気力はないからだ。

そして、他人とのうっすい繋がりも意外と嫌いじゃなくて、むしろ深めようと努力し合う関係よりもフランクで大好きだからだ!

1年後に関わりがなさそうな人とか、大好き!

プチ毒親育ちな子供時代を振り返る日記

 

※8ヶ月前に書いた記事に付け足しているので文が乱れています。読み返したくもないのでこのままで

 

苦労せずに生きてきたんでしょ?って言われやすい性格をしている。

そう言われるのはいいことだ、私はみんなのムードメーカー(癒し)でありたいと思って努力しているので、最早褒め言葉。でも同時に、そう言われると少し心の底で泣いている。

楽観的、快楽主義、利己的、直感的、そんな言葉が似合う人間だ。周りから見ればまあまあ楽しそうに生きてきた人に見えるに違いない。でも、どんなに泣いた後でも、家の一歩外に出たら楽観的、快楽主義、利己的、直感的に振る舞わないとと思ってきただけだ。このように振る舞うことで自分のアイデンティティと自分のキャラを守ってきたという方が正しい。家の中が辛すぎて、中と外でキャラが変わってしまうからだ。

ここを他人になかなか理解されなくて、私はよくギャップに苦しんできた。

私は別に悲惨な人生を歩んできた訳でもない。みんな私と同じくらいに苦労しているだろうし、それ以上に苦労している人なんてごまんといるだろう。

私は「私の人生そんなに悪くもないわ」とは言う。ただ、勝手に周りの人間に「お前は苦労してなさそう」と言われてしまうと些か腹が立つ。面倒なオトメゴコロである。

 

私は(プチ)毒親サバイバーである。

なぜ(プチ)を付けたのか、それは物理的な暴行をほぼ受けていないからである。これについては後ほど述べるだろう。

両親どちらも好きじゃない。気が合わない。

一人っ子にとって、これは致命的だ。20年間、全く気の合わない年上の知り合いと同居生活を送ることを想像してほしい。私の人生はまさにそれだった。

私をこの世に送り出したのは両親だが、もうあの世に帰りたいと思うくらいに傷付けてきたのも両親である。

私の親の良いところは暴力を振るわないところだった。ただ、暴力を振るわないからこそ私は自分の親は「最悪ではない」と思い続けることとなる。

両親とも気が合わないが、特に母は合わない。

 

私の母は正真正銘の毒親サバイバーだ。母の両親は歳を重ねて丸くなったが若い頃は酷かった。

このような恵まれない環境で育った母は自身と娘である私をいつも重ね、主に以下の点で比較をしていた。

①暴力の問題

幼少期の母 : 祖母が弟に暴力を振るっていたのをよく見ていた。姉である母は要領が良かったので、物理的に傷つけられたことはあまりないそうだ。代わりに叔父が怒られたりしていたそうだ。

私: 物理的な暴力は振るわれていない上、見てもいない。母に言わせれば「私よりマシな叱られ方してる」。

母は私を怒る時、度々私の腕を鷲掴んで煙草を押し当てる真似をした。そしていつも「私の母さんはいつもこうやって〇〇(弟)を叱ってたんだよ。あんたはそんな目に合わないから幸せ者だね」と言ってきた。祖母が叔父にした虐待の話はよく聞かされた。当時の私はこれをされるのが日常茶飯事だったから何とも思っていなかった……と思ってた。

が、時々何かをやらかした時に、腕を掴まれる感覚を20歳の今でも鮮明に思い出す。

母から物理的な暴行を受けたことはない。が、風呂場に閉じ込められたことはあった。これを友人に言ったら「いやそれ暴力だから」と言われた。

②自立の早さ

母 : 昼夜働く祖母は、家事を小学生の母とその弟に毎日任せていた。母はそれを子どもながらにきちんとこなし、非常に自立した子どもであったことを、誇りに思っている。

私 : 母程は自立していない。お手伝いがうまくできずよく怒られていた。

私は常に母に「早く自立しろ」「早く出ていけ」と言われていた。記憶の無いくらい幼い年齢の頃から事あるごとに言われ続けてきた。そう言う訳で、『自立した人間は優れているんだ』と言う考えが今も私の脳内には刻み込まれている。

疲れやすい体質の母は、まだ何も一人前にできない私の世話が面倒らしかった。特に天才児でもなかったので、母から一度言われた指示を確実にミスなく遂行することは困難だった。母の思い通りに動かない私はよく叱られた。1つでもミスがあれば、全て否定された。「何にもできないな」と言い捨てられた。母は常に「大人になったら誰も注意してくれないから感謝しろ」と言う態度だった。

「何もできないな」と言うのは、母が考えた言葉ではない。これは、私の保育園の先生の言葉の引用である。母が入園前まで過保護に私を世話していたために、私は他の同級生よりも自立できていなかった。保育園の先生は母に「〇〇(私)ちゃんは何もできませんね」と言った。そこから母は私に自立を求めるようになったらしい。

どれだけ母の顔色を見て、察して、行動してもどこか忘れていて必ず怒られる。子供ながらに私は自分が発達障害なんじゃないかと心配するようになった。

叱られすぎて麻痺したのか、小学校高学年になった頃には同じように叱られても何も思わなくなった。母は私に「あんたは叱られすぎて、叱られても何も思わないだろ」とよく言った。全くもってその通りなので、私は必ず「うん」と言った。

③金銭問題

母 : 祖父がすぐに使い込むので、貧困。

私 : 転職前は父の羽振りがよく、私が一人っ子なのもありまあまあ裕福。

この点に関しては、完全に私は母に嫉妬されていたように感じる。父によく泣かされていた私は、父への怒りのやりどころがわからずよく母に泣きついた。すると母はいつも決まって「私の父さんと違ってあなたのお父さんはちゃんとお金出してくれるんだから我慢しなさい」と言っていた。私は毎回その通りだと思いながら我慢していた。成長してからよくよく考えれば、望んでこの父の元に生まれたわけでもないのに何を言っているんだこの母親は!と思うが。

(しかしながら、この教育のおかげで、私は父のことをただの金ヅルだと思い込むようになり、やがて穏やかな関係を築けるようになったのは事実)

毎回このように宥めるだけで、父の私への結構過激な言動に目を向けてくれなかった母を少し恨んでいる。

 

このような教育を経て、私は母の言うことが絶対正しい、私は母よりも苦労していないので劣っていると思って成長した。でも中学生ぐらいになって、よくよく周りを見渡せば、なんかみんな私よりも気遣い力に欠けていたり、親にべったり依存していたり、自立できてなかったりする子ばっかりなのに気付いた。

「あれ、私マシじゃない?母親が間違っている?」

と思い始めた。

中学生になって、私は趣味に没頭するようになり、学校でも仲の良い友達ができ(小学校の時はほぼぼっちだった笑)、母との関係性も薄くなっていった。でも、時々幼少期のトラウマを思い出して過呼吸になったり、意味もなくボロボロ泣いていたりした。成長過程で、自分には何かが足りていないと思い続けていた。

大学1年生の頃、コロナ禍によるオンライン授業でずっと家にいた。父は失職したが無事転職。しかし給与がかなり少なくなり家は貧しくなった。居心地の悪い家庭より、学校での友達関係が拠り所になっていることに気づいていた私にとって、この環境はすごく絶望的だった。家計が傾いたことにより両親が精神的に崩れ始め、私も崩れた。親が今までよりさらに刺々しい。なんで生きてるんだろうと思って、毎日死ぬことを考えていた。何かに乗っ取られたように体調が良くなかった。水に飛び込んでやろうと思って裸足で毎日家の周りをうろついた。でも、実行するまでの勇気もないのが幸いだった。

夏休みに友達の家に宿泊した。私の現在の精神状態や一連の幼少期の話を聞いた友達の一言のおかげで、私はカウンセリングと精神科病院に行く決心がついた。

カウンセリングでは幼少期に親に甘えられなかった怒りと悲しみで初めの方は毎回ボロボロ泣いていた。カウンセラーさんが「あなたがお母さんの『親』だったんだね」とおっしゃったのが印象的だった。その通りで、私は母のご機嫌をとりながら、母の心を満たそうと顔色を伺いつつ必死で頑張ってきたんだと初めて気付けた。何をしたら母の望む娘になれるかで、いつも頭がいっぱいだったんだろう。でも、母は私の望む母でいてくれなかった。カウンセラーさんとの間で「もう親に期待するのはやめよう」という結論が出た。私は親のことを客観視するために、距離を置くことにした。

一人暮らししようと思い立った。幸い、私の度々の説得により、私が心身ボロボロになっていて親と距離を置きたいと思っていることは親も知っていた。両親からの金銭的援助を受けないことを条件に、私は一人暮らしを勝ち取った。

一人暮らしをしてから、両親のことで思い悩むことは無くなった。毎日が本当にハッピーで、夢のようである。一人暮らしを始めて大正解だった。両親は時々こちらに来た時に、ご飯を奢ってくれる。とてもありがたいし、短時間であれば話していて楽しい。でも、1日中一緒にいることがあると、ふとした両親の言動に1回は声も泣くすすり泣いている。お金がないので就職したら実家に帰って家賃を浮かしたい!とか呑気なことを思いつくぐらいには昔のことはスッカリ忘れた。でも本当にそれを実行したとしたら、また同じことの繰り返しな気がする。

 

親子という言葉は妙にドラマチックに描かれすぎである。しかしその実態はたまたま近くにいることになった他人同士である。関係性がうまく構築できた場合は、それはもう素晴らしく運命的な存在になるかもしれない。でもうまく構築できなかった場合は、ただのやっかいな目の上のたんこぶでしかないのだ。

でもそのたんこぶを乗り越えるのが毒親育ちの生きザマである。成長痛はあまりにも痛く、時には致命傷にもなり得る。でも、周りの人の援助を受け、親の毒っぷりを回避するスキルを身につければ、ちゃんと生き延びることができる。

私は過去の私のような人に手を差し伸べたいと思うようになったので、人の精神に関わる仕事に興味を持ち始めた。今度は私が援助をする側に回らなくては。